勘作

当山(お石さま)の縁起

合掌 当山に勤請(おまつり)されております御守護神、妙石霊神(みょうせきれいしん)様の御神体は谷山小富(たにやまことみ)先生の語りべによりますと、山梨県は甲府石和温泉の近くに遠妙寺(おんみょうじ)という川施餓鬼で有名な、お寺に源を発するので御座います。そしてこのお話は七百三十年前に遡ります。
佐渡流罪を赦免になった吾が祖日蓮大聖人様は、文永十一年五月十七日(一二七四年)身延山にお入りになられました。そして、波木井公の館にとどまること一週間、ご草庵造営工事の間、法華経弘通(ほけきょうぐづう)のため甲斐一円をご遊化なさいましたが、鬼苦ヶ島(菊島)の辻堂に休息なされましたおり、鵜飼漁翁の亡霊にあわれます。この亡霊は殺生禁断の石和の川に、網をいれた科で斬罪に処され、母を慕って現れるという鵜飼勘作(うかいかんさく)と言う漁師の不成仏霊でありました。勘作の一子である経市(きょういち)は本間六郎左衛門(ほんまろくろうざえもん)に捕われの身となり、生き肝の刑に処されそのため母は自害し、妻のお伝(つた)は悲嘆にくれるという悲しい実話でもあります。 大聖人はその懺悔の物語を哀れに思い、この霊に説法教化済度(救うこと)する決心をなされ六老僧給仕第一の日朗(にちろう)上人は河原から石を集め、同じく六老僧論議第一と誉れ高き日向(にこう)上人は墨を磨り、大聖人御自ら筆をとり法華経の一部八巻二十八品六万九千三百八十余文字を三日三晩にわたり一石に一字を謹筆謹書写し鵜飼川岩落の水底に沈め川施餓鬼を修し、亡霊を成仏せしめたと伝えられております。 この霊地には六老僧日朗上人が草庵をむすんだのにはじまる鵜飼の寺がありましたが、慶長年間(一六〇〇年頃)鵜飼山遠妙寺(うかいさんおんみょうじ)とあらため今日にいたっております。またこの寺には鵜飼勘作の伝説に関する資料が保存され、境内には勘作供養塔もあり謡曲「鵜飼」はこの勘作の物語をもとに室町時代の有名なで能作者で能役者でもある世阿弥(ぜあみ)元清がつくったものであります。
そして明治三十三年五月当山の御神体で御座います、谷山小富先生が七年間のお題目の苦修練行されたのちついに神託(霊界との交わり)を許され、霊神が七度夢枕に立たれたというお石様の石は、日朗上人が河原でお拾いなさり、日向上人が墨をすり、しかも大聖人様ご自身が御手になさいまして、一石一字(一石一字経と申します)を入魂開眼なさいましたそのお石が妙石霊神と谷山小富媼のお題目に導かれて、ここ紀州塩津の地にご縁を結び、当山の御神体としてお祀りされているので御座います。・・そして語り知れぬ霊験と奇蹟を頂いて来たことも事実であります。
このお石にまつわる伝説を紐解きますとき、このお石の由緒の正しさを改めて実感いたしますとともに、遠く七百三十年と言う歴史的時間を隔てたロマンをも感じ得、取りも直さず私たちに名誉と心強さをも与えてくださるのであります。 そして私は、もっと、このお石様にすがり、このお石を頼りに法華経を信じ、宗祖日蓮大聖人のお導きを通して妙石霊神と小富先生の願いに、皆様方と共にお応えせねばならぬと確信しています。

今日まで法灯が護持されて参りましたのは、ただ只管直向熱心な皆様方の御信心の賜と深く感謝致しますと共に、今後末永くこのお石の法灯が高揚継承され寺門の繁栄すること切に願い、皆様方各家の子孫長久と資生産業、家内安全を心よりご祈念申し上げます。

九拝

勘作物語

鵜飼勘作とは元の名を平大納言時忠(ひらのだいなごんときただ)と申しまして、平清盛(たいらのきよもり)の北の方二位殿(かたにいとの)(清盛の妻)の弟にあたります。平家が壇の浦の合戦に滅びた時、時忠卿が三種の神器の一つ「神鏡(八咫の鏡)を朝廷へ奉還した功が認められ、一命を助けられて能登の国へ流罪となった。而しこの地も安住の地ではなく、時忠卿は程なく能登を脱出し、甲斐石和の里へ逃れ住み、公卿(くぎょう)時代遊びで覚えた「鵜飼」を業とするようになりました。たまたま南北十八丁三里の間、殺生禁断の地と定められていた「法城山観音寺」の寺領を流れる「石和川」で漁をしていた事が知れ村人に捕らえられ、〝す巻き"(近世処刑の一例)にされて岩落の水底にしずめられたのです。
以来亡霊となって昼夜苦しんでいたところ、巡教行脚の旅僧、即ち日蓮大聖人の法力によって成仏得脱した。現在ではこの鵜飼勘作の物語をもとにして、平安時代から続いたといわれる 「徒歩鵜(かちう)」を再現し、石和温泉の夏の風物詩として多くの人を楽しませているそうです。

合掌